乙女座2度「掲げられた大きな白い十字架」*エゴを乗り越えた丘の上から
8月25日前後の太陽のサビアン。この「白い十字架」は個人の主観や感情を抑え、公共的な考え方や社会的指標に身を委ねることを表しています。それは自己犠牲と社会への貢献という二面性を持ち、時に自己抑圧という苦しみをもたらすことも…。詳しくみてゆきましょう。
「白い十字架」の持つ意味
乙女座1度に入り
乙女座はものごとを外観から観察し
細部の違いから識別する性質を養い始めます。
この特質は
分析的で緻密な思考を可能にする一方
獅子座的な自己表現や
主観的な感情を
抑制する傾向をもたらしてゆきます。
乙女座2度のシンボル
「掲げられた大きな白い十字架」は
この抑制と自己犠牲の精神を
象徴的に表現しています。
「白い十字架」は
純粋さと清らかさの象徴であると同時に
個人の主観を超えた
普遍的な価値観や
道徳的指標を示し
私たちに自己の欲望や感情を
超越することを
求めているようです。
これは乙女座の本質である
「奉仕」の精神と
深く結びついています。
しかし
この象徴が示す生き方には
深い矛盾も内在します。
自分の感情や欲望を
「汚いもの」と抑圧することで
心の奥底では
葛藤が生じてゆきます。
社会的規範や
道徳的指標を重視するあまり
生きること自体に
罪悪感を抱くようになることにも
なりかねません。
個人的な感情や欲望を抑え込み
客観的な判断基準に従って
行動しようとすることで
自然な感情表現に
躊躇することにも…
すると
生きることそのものに罪を感じたり
自然な感情表現さえ
「汚いもの」と
羞恥心を抱いてしまうかも…
現代社会における「乙女座2度」の葛藤
現代社会において、乙女座2度の象徴は
より複雑な形で
私たちの生活に影響を与えています。
社会的期待と
個人の自己実現のバランスを取ることは
特に日本社会においては
大きな課題と言えそうです。
多くの人々は
無意識のうちに
この「十字架」を背負っています。
完璧を求める社会的プレッシャー
他者からの評価を
過度に気にする傾向、
自分の感情を表現することへの
罪悪感や羞恥心――
特に日本の文化においては
「出る杭は打たれる」という考え方や
「和」を重んじる価値観が
この象徴性をより強化しています。
社会的規範や
道徳的基準、常識など
それに沿って行動すること
そして完璧さを追求し
細部にまで気を配ること
そうした自己抑制が
過剰な自己批判や自己否定
自己疎外を引き起こす
原因ともなりえます。
「乙女座2度の統合へのヒント
けれども
乙女座2度を高次に表現していくなら、
それは個人的な欲望を超えた
普遍的な価値観に基づく行動ともなり
社会や共同体への
真の貢献となり得るものです。
自己の限界を認識しつつ
より高い理想に向かって
努力を続けることこそが
「掲げられた白い十字架」の
真の意味なのかもしれません。
自己の欲望や衝動を
意識的に抑制し
より高い目的のために
自分を捧げることは
ある種の精神的成長をもたらします。
仏教における「無我」の概念や
キリスト教における
「自己犠牲」の教えにも
通じるものがあります。
「丘の上の白い十字架」から思い出される
コルコバートの丘のキリスト像
ここで私たちは
自己批判と自己受容の
「バランス」を見つけることが
大切なのではないでしょうか。
完璧を求めすぎず
自分の感情を
「汚いもの」として
否定するのではなく
それも<自分の一部>として
受け入れる姿勢を育んでみる…
こちらのシンボルを
ネイタルチャートにお持ちの方
また強調されるシーズンには
単に社会的規範に従うことではなく
自分自身の内面にある
「白い十字架」の意味を
深く理解してゆきましょう。
私たちの精神が、真に
<拠りどころ>と
すべきもの(十字架)とは
どのようなものなのでしょうか?
それを探し求めるのが
乙女座の旅なのかもしれません。
けれど
乙女座の旅は
まだ始まったばかり…
それは自己の限界を認識しつつも
より高い理想に向かって
努力を続ける旅…
けれどもし
途中で苦しくなったときは
完璧を求めるあまり
自分自身を苛酷に裁くのではなく
自分の不完全さも含めて
<受け入れる寛容さ>も
必要となってくるかもしれません
「掲げられた大きな白い十字架」は
私たちに自己と
社会的責任の間の 微妙なバランスを教えています。
それは時に重荷となり
私たちを抑圧するもの
となるかもしれませんが
正しく理解し
受け入れることができれば
より高い意識と
深い共感を持って
世界と関わるための
道標となるでしょう。
私たちの
内なる乙女座の知恵を活かし
奉仕の精神を保ちながらも
自分自身の感情や欲求を
尊重する道を見つけることが
ここからの乙女座の旅と
言えるかもしれません。