蟹座7度「月明かりの夜の二人の妖精」*こころ解き放ち「日常」の外へ出る
6月29日前後の太陽のサビアン。月明かりに照らされて楽しそうに踊っている二人の妖精たち…それは誰の心にもある「心の解放」への憧れ。わたしに本当にもっと必要なものは?蟹座は日常生活を表すサインですが、心を自由に解き放つことで、生活に「新たな可能性」を促すようなシンボルです。
昼間には見えないもの
ちょっと目をつむって
想像してみてください。
今日も一日頑張った!
そんな帰宅途中
空を見上げると
思いのほか
キレイなお月さまが…
昔の人は
月ではウサギが
お餅をついている…
なんて想像したと言いますが…
あなたがもし
月の光に照らされて
実在しないものが
見えるとしたら
何をイメージしますか?
ここでは
「妖精」という可愛い精霊が
登場します
二人で楽しそうに
ダンスを踊っています
それは日々過ごしている
「普段のわたし」という顔
の裏に隠された
まっさらで素直な気持ちの
投影かも知れません
こころの内にあるもの
一つ前のサビアンは
蟹座6度
「巣を作る猟鳥」
というシンボルでした
蟹座は
「小さな共同体」を創り
それを守ろうとするサインです
これまでの生活スタイル
自分の持てる重要なものを
犠牲にしても
家族的な安定した場を創ろうとする。
(松村潔先生「愛蔵版サビアン占星術」蟹座6度)
今回の蟹座7度のシンボルは
そんな6度に対する
「反動」とされます
本当にこの方向で大丈夫?
もっと必要なものはなかった?
「月」は気持ちや
感情といった
本能的な心の領域を
表す天体です
空想の中に
立ち現れてくる「妖精」は
わたしたちが知らず知らず
心の中に押し込めた
「もっと自由に
のびのびと
開放的な気分で
楽しく時を過ごしたい…」
そんな願望を
表しているのかもしれません
「日常」の裏側で
日常の安定した生活を
手に入れるということは
その反面
何かを失っているということ
であるのかもしれません
そんな
一方で「手にしていない何か」が
見えない心のどこかで
うずいてはいないでしょうか
「安定」という
「制約」の中に
自分を置くことで
かえって
「そこから抜け出て
自由になりたい」…
そんな願望が
心の中に
芽生えてはいないでしょうか
けれども
そうした願望は
私たちが気づかないうちに
私たちの「未来」への
「新しい種」に
なってゆくのかもしれません
いえ、必ずしも
せっかく手にした
「安定」を手放そう…と
言っているのではありません
ただ今の生活に
どっぷりと浸かり過ぎて
見失ってしまったものはないか?
月の光に照らされた
イメージの産物に
目を向けることは
そんな
自分が気づかないところ
見ようとしていないところで
無意識に「望んでいること」
に向き合ってゆく…
ことに繋がる
のではないでしょうか?
「空想」から生まれるもの
だからここで
ちょっと胸に手を当てていただき
月明かりの下の妖精から
あなたに質問です…
もしも…
今後の生活を
何の制約もなく
過ごせるとしたら…
何を望みますか?
「想像力は創造力」
といわれますが
現在私たちの
身の回りにあるものは
すべて
誰かの「想像」から生まれた
産物と言っても
過言ではありません
そう考えると
自由で伸び伸びとした
「空想」や
「想像」に向き合うことは
私たちが
「新たな未来」に向けて
「もっと実現させたいこと」に
目を向けることであるとも
言えるのではないでしょうか
遊びをせんとや生まれけん
「遊びをせんとやうまれけん」
という言葉を
どこかで耳にしたことは
ありませんか?
こちらは
平安時代末期に生まれた歌謡集
「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)
の中の一説です
「梁塵秘抄」とは
優れた歌で
家の梁(はり)の上の
塵(ちり)も動いた
という故事から
時の法皇が
自分の死後も
そんな優れた歌を残したいと考えて
集めた歌集だそう
遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声聞けば
わが身さへこそゆるがるれ
[訳]
遊びをしようとして
生まれてきたのであろうか
あるいは
戯(たわむ)れをしようとして
生まれてきたのであろうか
無邪気に遊んでいる
子供のはしゃぐ声を聞くと
大人である私の身体までもが
それにつられて
自然と動き出してしまいそうだ
(「WEBLIO古語事典」さん)
「妖精」たちのダンスとは
この歌に歌われている
無邪気な
子どもたちのよう
子供たちは
「何か」のためでなく
「何かを達成」するためでなく
「何かを手に入れる」ためでなく
ただその
「いっとき」を楽しむために
無心で一心に
「遊んで」います
”(遊ぶために)
生まれてきたのであろうか。”
→→そうに違いない
→→いや、そうではない
どちらの意味にも
とることができそうですが
私には
前者のように思えます
そして私たちも
子供が一心に遊ぶように
ただ「生きるという旅路」を
「愉しむため」に
ここにいるのだと…
そんな風に
伝えてくれて
いるかのように…
だから私たちも
毎日の暮らしの中に
そんな「遊びごころ」を
見失うことなく
過ごしていきたいと
思いませんか?
仏は常にいませども
また先の「梁塵秘抄」で
もうひとつ
有名な唄が次のものです
仏(ほとけ)は常に
いませども
現(うつつ)ならぬぞ
あはれなる
人の音せぬ
暁(あかつき)に
ほのかに
夢に見えたまふ
[訳]
仏は常に
いらっしゃるけれど
俗世に住む我々には
現実にそのお姿を
見ることができないことが
しみじみと尊いことだ
人の寝静まった
物音のしない
夜明けごろに
かすかに夢の中に
そのお姿を
お現しになることだ
(「WEBLIO古語事典」さん)
こちらの唄の
「ほとけさま」が
「人の落とせぬ暁」に
姿を現す…
というのも
まんまこちらのサビアンの
「妖精」のようですよね…
斎藤ひとりさんは
私たちの中には
「分け御霊(わけみたま)」と言って
大きな存在の一部があると
仰っていましたが
人の心にはいつも
そんな風な
「仏性(ぶっしょう)」が
潜んでいるのではないか
と思います
そして私たちの近くには
いつも
私たちのそうした
「元来の本性」を
見守って下さっている存在も
いるのだと思います
こちらのサビアンの妖精も
そうした
私たちを守っている存在か
あるいは私たちの
「元来の本性」そのものが
月明かりに照らされて
まぼろしのように
立ち現れたもの
なのかも知れません
蟹座7度からのメッセージ
ですので
こちらのシンボルは私たちに
私たちの「魂(たましい)」を
嬉しく楽しませる
そんな時間を
過ごしていますか?
私たちの「仏性」が
本来生きようとする生き方を
忘れてはいませんか…?
と…語り掛けてくれているのかも
「遊び」の語源は
仏教に由来しており
本来非常に
真剣なものであるという。
遊に戯をつけた
「遊戯(ゆげ)」は
心のままに振舞って
何ものにもとらわれない
自由自在な行動
すなわち
「さとりの世界」に遊ぶ
ことを意味したという。
(統計数理研究所さん)
ですので
月明かりの下に
「妖精」を見るように…
「そんなバカな」
「そんなもんいるはずないし」
といった
「集合意識」に
囚われた「思考」は
いったん脇に置いておいて…
あなたの内側が映し出すものに
素直に気持ちを向けてみる
フラットな気持ちで
それを眺めてみる…
すると、それは
あなたの「未来」に
思いがけない
「創造」と「変化」を
生み出すものと
なるかもしれません
けれども
「過去」からの
「固定観念」に縛られた
「今」の延長線上の
「未来」という
「安定」の継続にばかり
意識が向いていると
「妖精」などのヴィジョンも
(それが自分の内からの
真の願望であったとしても)
ただの得体の知れないものとして
またどこかへ追いやってしまう…
だから私たちはもっと純粋に
自分の内の「楽しむ心」を引き出して
「遊ぶ」ような
素直な気持ちで
思いがけない「未来」へと
飛び込んでみる勇気も必要だよ…
そんな風に伝えてくれているのでは
ないでしょうか
⚜ふとした時に
浮かんでくるヴィジョンは
あなたの深層心理を映し出す鏡かも…
⚜いま手にしている「安定」を
失いたくないばかりに
「未来」の可能性への「空想」を
あきらめてはいませんか?
⚜あなたの「次の未来」への願望に
もっと向き合ってみても
いいのではありませんか?
⚜人生は「ゲーム」のようなもの…
トライ&エラーの精神で
「遊ぶ」ように
生きることを楽しんでみませんか?