獅子座17度 「ベストを着ていない聖歌隊」*日常の中の幸せを噛みしめる
8月9日前後の太陽のサビアン。日本には古来「ハレ」と「ケ」という考えがありますが今回のシンボルはそんな「ハレ」の日のベストを着て歌う時ではなく、日ごろの生活の一部として歌う時間を、どのように過ごすべきかを伝えてくれています。実は「外出禁止」が続いていたコロナ禍の時、こちらのシンボルは、新月や満月などで何度も頻繁に登場していました。まるで私たちに「大切なこと」を思い出して、とでも促すかのように。
クールダウン
サビアン第4グループ
16度から20度の流れは
真正面の反対側のサインからの
影響が流入してくるところ。
獅子座では16度から
反対側の水瓶座からの意識が
入り込んでいます。
獅子座の1度で
「私」の中からから湧き上がった
止むにやまれぬ「興奮」を
16度からの水瓶座の流入によって
「クールダウン」するかのように
「日常」に明け渡す…
そんなシンボルとなっています。
「ハレ」と「ケ」
「ベストを着ていない」は儀式の時…
つまりまさに「ハレ舞台」の日でなく
ボランティアで
あるいは有志が集まって
あるいは単なる楽しみとして
あるいは神に捧げたいという
純粋な気持ちで
日常の中に歌っている人びと…
ということと思います。
この聖歌隊の人びとが
声を揃えて歌うゴスペルは
あらたまった「ベスト」(制服)を
着る必要のない普段着で
歌うことを通して
穏やかで平凡な
日常と言うルーティーンに
誰かと心と心を通わせながら歌う
という喜びの瞬間を
見つけたのだと思います。
自分一人(獅子座)で歌うのとは違い
他者との関わり(水瓶座)の中で
自分の歌声を合わせながら表現する…
そんな様子を表しているようです。
誰かひとりが
グループを統率しようとか
そういった力関係もなく
お互いが本来持っているパワーを
自然に発揮できるイメージ。
自分の中にあらかじめ備わっている
”輝き”を
日常を楽しみながら
お互いが引き出し合っていくような。
「日常」の中で
突然ですが、
ではここで、あなたにも質問です。
あなたは
いま日々生きている生活の中で
「幸せだなあ」と
感じるひとときはありますか?
例えば
窓辺から差し込む
温かな光に。
自分が入れたコーヒーの
ミルクとお砂糖のブレンドが
絶妙だったときに。
お天気の良い日に
夕方取り込んだ洗濯物が
カラッと乾いて
お日さまの温もりを感じられる時に。
リビングで遊んでいた子供たちの
ふとした笑顔が
どうしようもなく可愛く
感じられたときに。
…そんな風に
いつも、いつでも
「幸せな気持ち」は
受け取ろうと思えば
そこにあるもの
なのかもしれません。
「ここではないどこか」へ
けれども
そうは言っても
実際には
そんな風な「幸せ」を
「ちゃんと受け取る」
ことができるのは
1日に何回あるでしょうか?
いえもしかしたら
週に1回…?
いえ月に1回…?
いやもしかしたら
年に数回かも知れません。
そう…何故なら私たちは日々
いつも何か
「しなければならない」ことに追われ
それに意識を取られているから。
そう、私たちの意識はたいてい
「ここではないどこか」へ
行ってしまっていることが多いもの…。
「自分だけ」の幸福の基準
けれども、意識を「いまここ」に
しっかりとフォーカスさせてみると
「いま自分を幸せなキモチにさせてくれるもの」が
見えてくるのではないでしょうか
そして世間で一般に「これがあれば幸福だよー」と
せかされているものが、なくても
案外幸せとは
「目の前にある」ことにも
気付くことができるのではないでしょうか?
そこから、
「じぶんにとっての幸せ」とは何か、を
選んでいくことができるようにも
なってゆくのではないでしょうか。
「小さな幸せ」を見つける旅
けれどそれは案外
簡単なことではないかもしれません。
毎日目にし、耳に入る大量の「情報」たちは
私たちを常に
「ここではないどこか」にこそ
「幸せ」があるのだと
煽られているのですから。
それでも
「じぶんがホントウに大切と思うこと」
に意識をむけ
それを尊重し用と決め
諦めないでいることで
自分の奥に潜んでいる
小さな小さな「喜び」と言う
「灯り」を信じてみることが
できるようになってゆくのだと思います。
「曇り」を取り払う
けれども私たちの意識には
「ここではないどこか」でないものに向かって
「いま」を犠牲にしなければならない…
という「概念」の
分厚い「曇り」に目が覆われているので
時には
その「自分が大切にしたいこと」が
まったくわからない…
そんな状況に陥ってしまうことも
多いのではないでしょうか。
けれども
そうした「曇り」に固執して
大切なことを見失っていると
時にはタロットの
16番「タワー」のカードのように
ガラガラと目の前の「曇りガラス」が
崩れ落ちることも
あるかもしれません。
すると…「タワー」が崩れ去ったあと
次の17番のカード「星」が現われます。
視界を遮っていた
高い塔(曇りガラス)が崩れて初めて
私たちは、その向こうに
たくさんの星々が輝く夜空が
「最初からあった」ことに気付くのです。
そして私たちは…そんな体験を
何度も何度も繰り返すうちに
「あ、私が本当に大事にしたいことは、
これだったんだ」
「あ。それを大事にすることで
”幸せ“と感じる感覚を
呼び覚ますことができるのだ」
と気が付いていくのではないでしょうか。
そしてそれに「気付きさえすれば」
あなたの隣にいる小さな天使が
こんな風に慌てふためくのかも…
「えーそうだったの」
「苦しいよ―辛いよーって
いつも言ってるから」
「そういう体験がしたいんだー
と思ってたんだ」
「ボクら一生懸命そういう
ジェットコースターみたいな体験を」
「たくさん用意してあげてたのにい…」
そう言って天使たちが…
いえあなたの現実を構成していた「素粒子」たちが
「じゃあこれからは
“目の前のこと”にMAX幸せを感じるような」
「そんなひとときを、いっぱいつくるよ」
と言ってカタチづくってゆくことでしょう。
「制服」を脱ぎ捨てて
ともあれ大切なことは
こころの中に植え付けた
「こうでなければならない」という
「制服」(ベスト)を脱ぎ捨てて
「ベストを着ていない聖歌隊」
のようにただ純粋に
「喜びを持って人生を謳歌すること」
なのではないでしょうか。
自分自身の「本当の喜び」とは
なんであるのかに目を向ける…
すると「いま」歌っている
聖なる歌詞に込められていた
思いもよらない深い恩寵
(アメイジング・グレイス)にも
気が付いてゆくことが
できるのではないでしょうか。
「喧噪」のあとで
こちらのシンボルの2つ前は
獅子座のエネルギーがピークに達する
獅子座15度
「(お祭りの)山車(だし)」
といういかにも
獅子座らしいサビアン。
そこへ16度から
水瓶座の影響が入って来ると
獅子座16度は
「嵐の中の陽光」。
お祭りの喧騒のあとの
ひなびたような静けさを表す
シンボルです。
そこでいったん
自分を弾けさせるような
「非日常の興奮」を手放したあとで
今度は
道を歩いていたら
偶然聞こえてきた歌声に耳を止め
そばの教会へと入って行きます…。
すると「あなたもどうぞ」と
楽譜を渡され
何とはなしに、一緒に歌い始めます。
それが今回の獅子座17度。
そしてあらためて気が付くのです。
これまで
「ここではないどこか」の
「お祭り(ハレの日)」に向かって
ひたすら
「普段着の日常(ケの日)」を
犠牲にしていたけれど
もしかすると
「いろんな条件
(損得勘定や利害関係で
いいとか悪いとかの判断されるもの)」
という
「まるで自分を飾り立てる
カーニバルの衣装のようなベスト」
が無くたって
「わたしが本当に
大切にしたかったもの」は
それを手放した
普段着の自分にも
見い出すことができるのだ…と。
そう、あの「水瓶座のカード」
タロット17番の
きらめく「星」のカードのように
”まっさらなわたし”に還ること…
そして他のひとびととも
”まっさらな心で”共に歌い合うこと…
そうした「喜び」は
華やかな「お祭り」や
特別な「イベント」が無くても
ささやかな日常の中で
体験することができるものなのだと…。
その時初めて
あなたの部屋に差し込む陽光に
マグカップの温かな湯気に
こころからの幸福を
感じることができるのではないでしょうか。