水瓶座10度「一時的だと証明される人気」*今ある「役割」を離れたところにも
1月30日前後の太陽のサビアン。「人間関係で担っている役割」について考えさせられるシンボルです。私たちは誰しも社会・地域・家庭といった生活の中でいつも何かしら「役割」を演じることを期待されていますよね。それではその「役割」を離れると…?
「役割」の中で
水瓶座のキーワードのひとつが
「普遍性」と言われます
(「普遍性」については
こちらの記事でお伝えしています)
なにものか、また
どこかひとつの「場所」に
ひとつの「役割」に縛られることを
良しとしません
水瓶座→→「自由」
というキーワードもありますね
誰かに期待される役割
誰かに押し付けられる役割が
ときに重たく感じられてしまうことは
誰にもあることと思います
「一時的と証明される人気」というと
まるで芸能界で
プロデューサーにつくられた
アイドル像を演じるアイドルが
そのステレオタイプな
アイドル像に飽きられ
人気が落ちていくさまを
描いているような…?
人気の落ちたアイドルは
もうその「役割」を手放して
芸名を捨て
本名の素の自分に
戻ってしまうかもしれません
けれどもこのシンボルは
「逃げ出す」ことを
推奨しているわけではありません
逆説的ですが
「役割」を捨てたところには
どんな「あなた」がいるのか…
そんな疑問符を
投げかけているのではないでしょうか
そんな「普遍的」な存在としての
「あなた」を
見つめ直して欲しい…
と伝えられているのではないでしょうか
「替えの」効く存在?
このシンボルに
とても良く似たエピソードが…
それは或る日
電車に乗ると目に飛び込んできた
ある広告…
それは
140字というツイッター小説集の本。
その中の1編が
そのまま広告に掲載されていたのです
要約すると…
仮面をつけて売り出している
覆面バンドのギタリスト。
人気絶頂の中
余命いくばくもないことが発覚する。
自分の代わりに仮面をつけて
ギターを弾く誰かを
病院のベッドの
スマホで見ている彼。
ファンは誰も
彼が入れ替わったことに気付かない。
ただひとり
「しつこかったアンチ」が
今までと音色が違う
と指摘する
投稿が目に入った
…というもの。
水瓶座第2グループ
水瓶座10度は
水瓶座第2グループ
最後の度数です。
水瓶座第2グループの始まりは
水瓶座6度
「神秘劇で儀式を演じる
仮面をかぶった人物」
です。
こちらも先ほどの「ストーリー」に
重なりますネ
集団的な活動の中で演じ続けることで
社会的な役割を全うするひと
(松村潔先生「神秘のサビアン占星術」)
さらに
「愛蔵版サビアン占星術」では
(社会的な役割に)
自分を同化させるべきではなく
(本当の)自己と
社会の仮面とを分離させ
心は自由になろうとする
…人、となっています。
つまり「役割」は
「演じる」ものと割り切り
(本当の)自己を
切り離して考えることで
自己を護ろうとしている、
とも考えられます。
この度数は
先ほどの物語で言えば
「覆面バンド」の一員である状態
であると思います。
「覆面」を外して
けれども
今回の水瓶座10度
のサビアンになると…
(ここからはあくまで
私の勝手な解釈ですのでご容赦下さい)
「役割の中で演じられているような
象徴としての人格像」と
仮面を外した生身の人間としての
「わたし」が
「はっきりと分裂する」
のがこの度数です
(松村潔先生「神秘のサビアン占星術」より抜粋)
死を目前にした
先ほどの小説の主人公は
病院のベッドの上で
どんなことを想っていたのでしょうか…?
ある日仮面は他のより若い人にわたる。
そして残った老いた俳優は
裸の個人として
ひとの本質とは何か
を真剣に考えるようになる
(松村潔先生「神秘のサビアン占星術」)
そう
恐らく
すり替わっても
誰一人気付かなかった
ファンからの「人気」の
儚さ・危うさ
に
「覆面」を外した
生身の人間としての
「じぶん」という存在の
儚さ・危うさ
を
重ねていたのではないでしょうか…?
そんな彼にとって
「しつこかったアンチ」
ひとりきり
自分という存在を
しっかりと認めてくれたようで…
複雑な気持ちながらも
一抹の安堵
を感じたのではないでしょうか
「人気」はつくられる?
「しつこかったアンチ」という
短く絞った表現が
秀逸ですよね。
「覆面バンド」が
人気を博していることを
SNS上で
長く批判していたのでしょう。
「覆面バンド」とは
プロデューサーや
仕掛け人がつくった
「演奏家の個性」不在
でも成り立つ
「大衆の求めるもの」
に合わせて
創り出された虚像…
とも言い替えられる
のではないでしょうか
(そして恐らくは
「大衆が求めるもの」そのものが
「役割」の”満たされなさ”からの
「はけ口」とも言えるかもしれません)
そうして作り上げられた「人気」は
恐らくこのシンボルのように
「一時的なもの」
となるのではないかと思います。
それは誰の心の中にも
きっとある
「役割」と
「まっさらな自己」との分断を
示しているようにも思われます。
その「役割」は
どんなに頑張っても
いつでも
「他の誰か」に代替えのきくもの。
ネジであり
歯車であり
それに気がつく時の
無力感。
そして孤独感…。
そして感じる
所在なさ…。
仮面の裏に在る「わたし」
けれども
松村先生はこう付け加えています。
このシンボルだけを読むと
しばしば否定的な意味に
捉えられかねないが
これは開吾と自覚の度数だ。
(同上)
つまり
「目覚め」の度数である…
と言われていると思います。
つまり
水瓶座6度の「仮面劇」で
既に彼は
「仮面の裏」にある
「じぶん」を自覚して
「演じる」ことに徹しようとしていた。
そしていよいよ
水瓶座10度では
この「役割」をあとにして
「演じる」ことを
放棄してゆくのです。
そして
そこに残った
「なにものでもない誰か」
という自分自身を
受け入れるのです。
「役割」を離れた「わたし」
ではあなたも
ここでちょっと
考えてみて下さい。
ここに何本か
色とりどりの
リボンがあります。
会社の○○
という「役職」のリボン。
「妻」というリボン。
「嫁」というリボン。
「母親」というリボン。
また「娘」というリボン。
あるいは自治会や
PTAの「○○」というリボン。
あるいは…?
そんな
「リボン」と「リボン」が
結ばれた
「結び目」が
ほどけたときに
そこに残る
「あなた」とは…
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